りんどう湖レイクビュー矢澤社長ありがとうございます!応援させていただきました〜!

那須の皆さんいつもお世話になります。これからも頑張ってくださいね!

 

 

東京も自粛解除ですか。

マンションの補修工事がようやく山超えたようでホッ。

普段漫画はこの部屋で描いているので騒音がけたたましくて、ぐっと堪えての作業でしたが流石にコロナ対策と並行でストレスきつかったので、ゼルダの連載は少しお休みもらって助かりました。

でも墨絵作品が沢山残ったからよしとしよう。

普段なるべく愚痴や文句は言わない、我慢、耐えると決めているんだけど我慢の限度超えてましたw。

読者の皆さんには申し訳ないです。

やはり若くはないのだなぁ。

一月の終わりから4ヶ月。

個人的には山籠りの修行期間と思ってました。

日常が完全に戻るにはまだまだ時間かかりそうですが。

この期間、世界中が未曾有の危機に突入、経済はこれからが大変になるみたいだし、自分の周りも平穏ではありませんでした。

が、

あらためて過去を振り返ったり、普段やらないような勉強をしたりで、見えなかった事も沢山見えたし、特に自分のこれからの進むべき10年はとてもクリアになったかな?

 

普段何気にニュースで見ていた政治に関する事で疑問に思いわからなかったことを自分なりに調べ、それに伴い、人、日本、世界の事に目が開く事があり、知恵の大切さをあらためて感じたりしました。この歳になっても世の中は知らない事だらけ。

 

それなりに楽しみを見つけて暮らせたと思います。

 

沢山インプット蓄えたのでこれからアウトプットの時間の始まりです。

 

「ごんぎつね」

新美南吉 著 黒井健 絵

1986年発行 偕成社

初出は1932年(昭和7年)絵本雑誌「赤い鳥」1月号

あれこれ考えてラストは地元作家で。

南吉は愛知県半田市の生まれで、記念館があり生家も残ってます。夕方に見ると哀愁を感じる佇まい。半田の隣の阿久比町にある権現山が作品の舞台だと言われています。

実は地元も地元、ご近所です!

 

子供の時に読んで強烈な印象を受けた童話。

「ごんぎつね」は小学生国語の教科書に載っているので知らない人はいないと思いますが、最初に読んだのは教科書ではなく絵本だったかも知れない。

この絵本はその時からかなり後に発行された絵本で30年くらい前ですが多くの方が目にしていらっしゃるのでは。

 

今大人になってから改めてこの物語に触れてみて、その深さというか生きていく者達のやるせなさに触れた。

絵本や童話は寓意性が高くてやはり好き。

簡単で短い文章や話しの中に人生のエッセンスがぎゅっと詰まった沼のような深淵さがあり自分の目指す世界がある。

子供から大人まで読め、人生の経験度で感じ方が変わってゆく。年相応の受け取り方が出来る物語。(南吉はこれを18歳の時に書いたというのだから…)

優しさの中に生きる者達の悲哀を感じる絵本や民話をあらためて読み返してみたい。

今回これを書くために少しばかりググってみたが、南吉の草稿と「赤い鳥」に載ったものは違いがあると初めて知りました。

「赤い鳥」発行者の児童文学者 鈴木三重吉によって30箇所くらい手直しされているそうです。一番重要なのはラストシーン。あの有名な、(↓意訳です)

「ごん、おまえだったのか。いつも栗をくれたのは」猟銃をぼとりと落とし愕然とする兵十。ごんは目をつぶったままうなずいた。火縄銃の銃口から青い煙が出ていた。

これの「ごんは目をつぶったままうなずいた」は、南吉の原作には

「ごんは目をつぶったままうなずき、うれしかった」

と書いてあるのだそうです。えええ!!

この一言だけで読後の印象がかなり違う。ごんと兵十は気持ちが通じあったのか、すれ違ったのか。自分は「動物と人間はやっぱり通じ合えない、同じ世界に住めないって事なのかな…」と子供の頃悲しく思った記憶があります。今思うと、ごんの行いを比喩するならば、子供のまだ経験を伴わない悪意のないいたずらと純粋なる善意が、こういった結果を生んでしまうという…

「ごんぎつね」はやるせない物語だけど最後に「ごんはうれしかった」とあるとないでは読後に流す涙の意味が90度くらい違う。

国語の教科書では子どもにごんの気持ちを考えさせるために「うれしかった」の一文を取ってあるとの記述も見ましたが、赤い鳥版で既に無いので、これは適当な推測な気がする…。鈴木三重吉さんの判断で削除されたものでしょう。

南吉はこれをどう思ったのか?

手元に届いた「赤い鳥」を開いて「僕が書いたのと違う…」とモヤモヤしたのではなかろうか。漫画家としてはちょっと気になると言うか看過できない件;;;(「赤い鳥」掲載は物語が書かれた翌年の南吉19歳の時)著作権など重要視されてない時代、18歳の若輩が書いたもの、鈴木三重吉はかなり「偉い人」だったはずなので、おそらく南吉の許可など取らず添削するつもりで勝手に直して掲載したに違いないと思うのですが。南吉は、雲の上にいるみたいに偉い人のやった事だから仕方がない、これがきっと正しいんだと納得したのでしょう。

貴方の物語は90年経っても生き残り、日本中で知らない人はいない位愛されていますよ。鈴木三重吉さんはもう知ってる人殆どいませんが。でもみんなが知ってるのは鈴木さんが書き直した方なんだよ…と、南吉に教えてあげたい気分。

(蛇足ですが、昔は「偉い人」って庶民に対してかなりの横暴を平気で働いてました。それに庶民が怒り、立ち上がって戦い、今の日本の「平等意識」がある。しかし怒りばかりが澱のように残ってしまい、権力側が間違っていようがいなかろうが「権力にはとりあえず反発」する、令和の時代通年からは的を外れた「庶民側の横暴」が幅を利かせている昨今のように思います。個人的な感想)

南吉は猗甍キ瓩砲弔い15歳の時にノートにこう書いたとの事です。

「やはり、ストーリィには、悲哀がなくてはならない。悲哀は、愛にかわる。けれどその愛は、芸術に関係あるかどうか。よし関係はなくてもよい。俺は、悲哀、即ち愛を含めるストーリィをかこう」

15歳にしてこれ。

「ごんぎつね」の悲哀感が愛の意図を含んでいるのは間違いなかろうと思います。南吉が子どもに伝えたかった美しき悲哀をかみしめつつ改めてこの物語のラストシーンを思い巡らせてみたい。

 

 

 

 

記念館は車ですぐの地元にあるのです。